達郎書き起こしプロジェクト by ロック軍曹とサーカスタウン1998/11/29 Sunday Song Book「History of Japanese Rock, Folk & Pop Part 4」
竹内まりや/カムフラージュ 1998/11/18 Single
(BGM)吉田拓郎/人間なんて 1971 *1
吉田拓郎/今日までそして明日から 1970『青春の詩』 *1,2
泉谷しげる/春夏秋冬 1972『春夏秋冬』*1,3
古井戸/ちどり足 1972『古井戸の世界』*1
はっぴいえんど/12月の雨の日 1971/4/1 Single *4,5
(BGM)はっぴいえんど/かくれんぼ 1970『はっぴいえんど』*6
遠藤賢司/カレーライス 1971『満足できるかな』*7
RCサクセション/ぼくの好きな先生 1972『初期のRCサクセション』*8
はちみつぱい/煙草路地 1973『春一番コンサート・ライブ(73年版)//V.A.』*9
吉田拓郎/結婚しようよ 1972 *10
井上陽水/傘がない 1972『断絶』*7
ガロ/学生街の喫茶店 1972『ガロ2』*11
大瀧詠一とココナツ・バンク/ココナツ・ホリデイ 1974『1973.9.21ライブ・はっぴいえんど/V.A.』*4,12
*1 エレックレーベルの作品
*2 71年でチャート最高59位。
*3 チャート最高46位。
*4 ベルウッドレーベルの作品
*5 実質的デビューシングル。アルバム発売後に出た別Version。
1974『シングルスはっぴいえんど』所収。
*6 URCレーベルの作品
*7 ポリドールレコードから発売
*8 東芝レコードから発売
*9 ムーンライダーズの前身。スタジオ版未発表曲。
*10 CBSソニーから発売。当時のチャート3位、40万枚のヒット。
*11 コロンビアから発売。山上路夫作詞、すぎやまこういち作曲、大野克夫編曲
による外部の作家による作品。達郎氏曰く「これじゃ、まるでGS」。
当時のチャート1位、80万枚のヒット。
*12 はっぴいえんどの解散コンサートのライブ。達郎氏もシュガーベイブとして
コーラス参加、初めてのステージ。
内容の一部
・ツアーは19本消化、残り29本。今週は12/1(火),2(水)新潟。
・「カムフラージュ」はオリコン初登場一位達成。
(サザンと同じ)デビュー20周年にして初のシングルチャートNo.1
#おめでとう!
・「カムフラージュ」発売記念プロモグッズプレゼントの告知。
以下、「History of Japanese Rock」の内容。特記していない箇所は達郎氏の
コメント。冗長かつトートロジー続発ですが、まとめるのが大変だったのでお
許しを。
・今週は前週の残りのエレック・レコードの作品、そして大ヒットが生まれメ
ジャー化していく1971〜2年のフォークミュージックを紹介。題して「オー
バーグラウンドへ飛び出して行くフォーク・ミュージック」
(前週のURC,ベルウッドの両レーベルはつまむ程度しか説明できなったが、
来年になったら日本のフォーク&ロック特集をしばらくやりたいので、その
時に。)
・エレックは元々通信教材などを作っていた会社から始まり、1969年にレコー
ド会社としてスタート。最初にブレークしたのが吉田拓郎さん。彼は広島フォー
ク村出身で、1970年頃に人気に火が付き、1971年には押しも押されぬフォー
クの大スターとなる。1971年にソニーに移籍して、更にヒットが続出した。
・当時のエレックの作品群は、歌謡曲全勢の時代としてかなりのヒットであり、
学生の間(今で言えばカレッジチャートのようなもの)ではぶっちぎりの大ヒッ
ト。このようにフォークのメジャー化の一翼を担ったのがエレックであり、
他にも生田敬太郎、ケメ(佐藤公彦)、海援隊、山崎ハコなどが在籍。
・エレックは一世を風靡していたころは社員が120人も居たが、放漫経営がた
たり倒産する。自分は一番末期のエレック(ナイアガラレーベル)に所属した
が、倒産の直接の原因が徳川夢声の宮本武蔵の100枚組を作ったが在庫を抱
えて不渡りを出した為と聞いている、が真意の程は不明。
・圧倒的に生ギターによるフォークの方がエレクトリックなロックより先にオー
バーグラウンドに出て来た。日本語によるエレクトリックロックの草分けで
ある"はっぴいえんど"は1曲もメジャーなヒットがなかった。しかし我々の
様なセカンドジェネレーションは大いに触発され、後世のミュージシャンの
影響は圧倒的に大きい。日本語のフォーク&ロックを形作ったのがはっぴい
えんど(及び、その前の岡林信康から続く流れ)であることは論を待たない。
・大滝詠一氏のコメント
はっぴいえんどの前身はバレンタインブルーと言い、1969年に結成、来年で
丁度30年。アルバム「はっぴいえんど」が出たのが70年だから、再来年が30
周年記念となるのか。当時の時代背景は70年安保があり、学生と言えども
(というか学生の方が)強く政治に関わらざるを得ないような風潮だった。60
年安保程じゃなかったけれど。それから音楽が文化のメインストリームだっ
たので、否が応でもいろんな形で若者が音楽に関わっていた。ロックとか弾
き語りとか、自作があったり英語で歌ったり、いろんなのがあった時代。丁
度学生バンドが沢山出て来た。思い起こせばというか、本来学生というもの
は末は博士が大臣かと言われたぐらいで、就職するために大学に入ったんだ
けど。戦後に色々あり、我々は丁度戦後世代、「団塊の世代」と呼ばれた。
昭和22〜24年、細野、大瀧、松本と団塊の世代の真っ只中の3人が集まった
訳で、戦後の若者が丁度20歳前後を迎えるところで作り出した音楽というの
が沢山出て来たのがこの時代だった。デビュー曲となった「12月の雨の日」
は、元々リードギターがなく3人でやっていたが、その時のデモテープに
(鈴木)茂君が最初にリードを付けたのが最初からあの様な感じだった(と聞
いている。自分はたまたまその場に居なかった)。非常に印象的で、あの曲
はあのイントロが全てといっていい楽曲なので、細野さんと松本君が「彼し
か居ない」とデモテープにテープを入れた時に4人目のメンバーとして決まっ
て、その日がたぶんはっぴいえんどが結成された日なんだろうと思う訳であ
ります。
・輸入文化としてのロックンロールを日本語としてどう展開していくのかが、
(今の日本語のロック&フォークに通じる)基本的命題なのだが、その突破口
が戦後ベビーブーマーの世代から生まれてきたアンダーグラウンドな流れで
あり、吉田拓郎さんからはっぴいえんどまで色々な応え方があった。これに
相反して、ロックンロールは輸入文化だからあくまで英語で歌って世界市場
を目指すべきだ、日本なんて小さいところ完結しないでインターナショナル
を目指すべきだという考え方もあり、いろいろなところで日本語ロックに関
する論争というのが70年頃、盛んに行われた。英語で歌い、国際的に羽ばた
くことを目指した作品も多くあるが、これは次週に持ち越し。
・70年前後から誰言うともなく「日本語のフォークとロック」という言葉が出
ている。政治の季節と相まみえ、フォークとロックのコンサートがいくつも
開かれ、それが学園紛争などとリンクした。この頃から続々とミュージシャ
ンが登場するが、ほとんどが団塊の世代であった。そしてインディーだった
のがだんだんメジャーレーベルが手を出すようになり、メジャーからデビュー
するミュージシャンが沢山でてきた。
・鈴木慶一氏のコメント
「煙草路地」はコンサートのアンコールにやったりして、最もカントリーロッ
ク的なサウンドだった。これを何故レコーディングしなかったかというと、
実はレコーディングしたんですが、しかもホーンセクションまで入って。記
憶に間違いがなければメンバーの渡辺勝がホーンの譜面を書いて、録音し、
ボーカルの入った状態のものがあるはず。何年か前に聴いたことがある。で
理由は所属プロダクション(風都市)の不安定さ。いろんな人の意見がごちゃ
まぜになって、誰か一人が決めるんじゃなくて、みんなで意見を出し合って
まとまっていくバンドだったので、録音したけど後に取って置こうというこ
とになったんだと思う。だから「煙草〜」はライブでしか世に出ていない。
風都市では、プロダクションみたいなことも誰もやってなかったりするんだ
けど、それはそれで居心地が良かった。音楽を作る上でのライバルが居たり、
それも良い意味での刺激になった。スタッフの中に頭の切れる人も居た。た
だ経済的に非常にいい加減だった。今でも覚えているけど、給料を貰いに行っ
たら鰻丼に消えていたこともあった(笑)。まあ、いいかって帰ってきました
けど。そういうような世の中だったんですね。
・(風都市の)当時のスタッフはみんな素人ばかりだったのでマネージャー経験
もなく、自分の末期の風都市に居たけどとうとう給料を一銭を貰えないまま
倒産した。
・だんだんアンダーグラウンドな流れからレコードマーケットにヒット曲が生
まれるようになるが、最初はエレクトリックなものよりフォークの方が先に
ヒットが生まれた。当然メジャーレーベルからリリースされることによるの
だが、その発火点が1972年だった。
・井上陽水さんの「傘がない」の後に出たLP『氷の世界』は1973年の暮れから
連続13週1位、2週だけ"かぐや姫"のアルバムに譲るが再度1位になり、トー
タルで30週1位、150週チャートイン、総売上131万枚。この後、アルバムの
ミリオンセラーは1981年寺尾聰『リフレクション』まで待つという物凄さ。
とにかく女子高生、女子大生、OL、皆口を揃えて猫も杓子も井上陽水。男衆
は口をポカンと開けて見てるだけ。私の知合いのガールフレンドは全員『氷
の世界』と『二色の独楽(こま)』を持っているが、異口同音「詩がいい」。
それを見て更に口をポカン。そういう思い出が高校時代にあります。
・ロックのヒットが出るのはこの1〜2年後で、来週はオーバーグラウンドへ
飛び出したロック、そして日本語のロックとフォークがいつしか73〜75年頃
にニューミュージックと呼ばれていく。「History of Japanese Rock Part
5」、題して「ロックの多様化とニューミュージック」。
・はっぴいえんどは1973年9月21日に解散コンサートをする。その時に大瀧さ
んのステージでシュガーベイブとして初めて公の場に出て、コーラスを担当
した。ここからセカンドジェネレーションの時代へ突入する。そういう意味
でエポックメーキングなライブだった。吉田美奈子や南佳孝らの実質的なソ
ロデビューライブでもあった。
今後の予定ですが
・12/6は「History Of Japanese Rock Part 5」。
circustown.net による放送書き起こしです。文責 circustown.net。抜け誤りはお知らせください。
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