2014.04.30 - 追悼大瀧詠一 | ||
しらみの旅
高田渡 ごあいさつ (1973) |
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文化の世界では和魂洋才という言葉は最近あまり使われなくなってしまった言葉のひとつではないかと思う。
今の日本の文化は時として洋魂和才だったりあるいはいったん外に出てぐるっと一回りしてきた和魂和才だったりして、そのルーツがどこにあるのか俄かには判然としないということもある。戦後文化はどんどん多様化してきたし、明治の頃のように列強に追いつき追い越さなくてはいけないという切迫感とか劣等感のようなものを、少なくとも今の私達は抱いていない。概してその出自にはこだわらなくなってきているというのが現代の日本人の太宗なのではないだろうか。
人の営みや文化というものは歴史の連なりの中で脈々と繋がれ紡ぎ出されてくるもの。そうした文化の配合というものがあって今を形作っているということに、案外今の私達は気がついていないというか自覚的でないということは多いと思うのだ。
大滝詠一さんは、歴史的な必然性や互いの相関をもって重層的に文化が積み上げられていくということを常に感じ取っていたと思う。ある日ぽこっと何かが生まれてくるのではなくて、そこには必ず先人たちが作り上げてきたものからの何らかの影響がある。そうした時間や空間を超えた人と人とのイマジネーションの交流こそが文化なのだと。
そしてそうした”連鎖”とか”繋がり”というものをある種楽しんでいる風でもあった。時々かなりこじつけやな〜、と思うこともあったけど(笑)・・・。
文化というのは完全な個に帰する固有のものはなくて必ずどこかに引き継いできた何かがある。完全なオリジナルなどというものはなくて必ず。
高田渡さん。
高田さんは自分が紡ぎだす音楽のポジションというものにかなり自覚的な人だったのではないか。綿々と続く歴史の中で自分はどの辺りに立っているのか。日本でフォークをやるということに対する居心地の悪さとか時代との対峙の仕方とか・・・。そういう葛藤なしには「自衛隊に入ろう」は生まれなかったのではないか。
大滝さんとの対談で高田さんはアメリカのフォークソングは、日本でいえば明治艶歌のようなものではないかと語っている。アメリカで労働運動の象徴としての労働歌が生まれるよりも前に、日本では自由民権運動の頃に政治批判として明治艶歌が生まれていて、高田さんはその背景とフォークソングが生まれてきた背景に共通するものを感じ取っていた。
さらに高田さんは、フォークというのは元来労働歌であるにも関わらず60年代の日本のフォークはカレッジ・フォークのようなきれいなものばかりで違和感を感じていた。だから高田さんは明治の演歌師、添田唖蝉坊の世界をフォークに乗せてみせた。(「あきらめ節」)
。これぞ和魂洋才。
大滝さんはかつて小林旭やクレイジー・キャッツも歌った、唖蝉坊を祖とする明治演歌師の系譜の最後に連なっているのが高田渡だと言う。
そして、ここからが大滝さんなわけだが添田唖蝉坊を歌った高田渡はチャック・ベリーを持ち出したビートルズであるが如きだと。そう言われてみれば「しらみの旅」に大滝さん流解釈の符号がある。
高田さんの「しらみの旅」はもともと唖蝉坊の歌では「流浪の民」のメロディーで歌われていたのだが、それでは救いようもなく暗い歌になるので「Wabash Cannon Ball(弾丸列車)」のメロディーを借りてチャック・ベリーのリズムでやろうというアイデアをバックのはっぴいえんどに持ち掛ける。
ここにアメリカのフォークを仲介者として、添田唖蝉坊−チャック・ベリー−高田渡アダプトはっぴいえんどが一本に繋がってくる。文化の配合と歴史の必然の中に高田渡の存在感がくっきりと浮かび上がってくる。
余談だが大滝さんのギターの演奏ははっぴいえんどでの演奏を除くとそう多くは残されていないので、紛うことなきこの名盤で大滝さんの演奏を聴くことができる僥倖にも感謝したい。
それにしても、高田さんの「銭がなけりゃ」や「スキーの歌の替え歌」などを聴いていると大滝さんの「びんぼう」はどうもここにつながっているのではないかと思う。もう一つの必然はこの辺りにもあるんじゃないか。
今日は「自転車にのって」吉祥寺に出かけてみようか。吉祥寺の空から高田さんと大滝さんがとぼけた風情でギターを弾きながら歌っているのが聞こえてくるかもしれない。
今日の1曲