関西フォークの高石ともや
2024.09.07
We Shall Over Come
高石ともや
(1967)
その1関西フォーク時代
(その2ザ・ナターシャー・セブン時代に続きます)
1941年 北海道に生まれる
1960年 立教大に入学し東京へ
1966年8月 大阪労音コンサートに飛び入り (この頃、秦政明と出会う)
1966年12月 シングル「かごの鳥ブルース」でレコードデビュー
1967年9月 高石事務所を開く (秦政明)
1968年2月 「受験生ブルース」リリース
1968年9月 岡林信康、シングル「三谷ブルース/友よ」でレコードデビュー
1969年2月 高石事務所がアングラ・レコード・クラブ (URC) のレコード配布を開始
1969年12月 高石、活動を休止
高石ともやは関西フォークを代表するシンガーでした。出身は北海道で、立教大学に入学し東京に出て、さらに色々な仕事をしながらフォークソングを歌い、関西に流れ着きます。
当時の高石の憧れは Peet Seeger や Bob Dylan らだったようで、高石は "We Shall Over Come" を歌いました。この曲は1960年代頭、アメリカの公民権運動の流れで Pete Seeger が広めた曲でした。
We Shall Over Come / 高石ともや (1967)
関西フォークは高石が始まりとされ、高石に触発されて、中川五郎、岡林信康らが続けて登場します。岡林の「友よ」は当時の学生運動の愛唱歌となっていたそう。関西フォークは、反戦・反体制のプロテストソングとして印象付けられます。
友よ / 岡林信康・高石友也・フォーク・キャンパーズ (1968)
ただし高石がプロテスト一辺倒だったわけではなく、こんなヒット曲もありました。
受験生ブルース / 高石ともや (1968)
「受験生ブルース」は中川五郎が作った Bob Dylan の替え歌に、高石がコミカルな曲をつけたもの。とてもヒットし、当時は誰でも知っている曲でした。関西フォークは高石から、と書きましたが、それとは特に関係なくアンダーグラウンド的な音楽活動を始めていたの存在に、関西の大学生加藤和彦らのフォーク・クルセーダーズがありました。彼らの「帰ってきたヨッパライ」は1967年末に火がついた、日本を代表するコミックソングでもありました。高石、加藤が作った関西フォークを代表するヒット曲がコミックソングというのも面白いと思います。
このように、関西フォークシーンはプロテストあり、コミックありの、実はなんでもあり状態だったようで、そのシーンをまとめていたのが秦政明という人でした。秦は今でいうプロモーターあるいは起業家のような人で、活動家的な側面もあったとされます。秦は高石のマネジメントのために高石事務所を興し、高石だけでなく、フォークル、中川、岡林、さらには五つの赤い風船、高田渡、遠藤賢司、ジャックスまでもをマネジメントし、さらには後のURCレコードとなる会員制レコード配布サービスのアングラ・レコード・クラブを始めます (これインディーかつサブスクですね、すごいと思います) 。秦の存在が関西フォークに力と方向性を与えたのかもしれません。こうみると関西フォークはプロテストというよりはアングラという言葉があっていたのではないかと思います。
ちなみに、当時「関東フォーク」というものがあったのかというと、検索してもフォークリフト会社しか出てきません。関東フォークに相応する流れは「カレッジフォーク」だったのでしょう。
高石と"フォークの神様"岡林が反体制の騎手として祭り上げられる中、彼らは1969年の後半に、相次いで音楽シーンから離れてしまいます。その理由は、プロテストやある種の商業主義に巻き込まれたこととの彼ら自身の意識の乖離ではないかと考えられます。その後、高石はアメリカを半年放浪し、帰国後ザ・ナターシャー・セブンを始めます。岡林も高石よりひと足先にシーンに戻り、そこで引き連れてきた"ロックバンド"がはっぴいえんどでした。 (続く)
(たかはしかつみ)