第1回 : 上柴とおるさん



DJいまむかし

-ことほどさように一般的な認知度の低いこれらの音楽を紹介していくというのはご苦労も多いと思いますが。
 僕は番組にしてもグレイ・ゾーンに向けてやっているわけじゃないですから。好きだろうと思う人を想定してやっているわけで。

-特に放送ということになるとなかなかコマーシャル・ベースに乗ることが難しくて、企画としてはあっても実現できないっていうことがあるんではないでしょうか。そういう意味ではライナー以上にDJとしての活動はご苦労も多いと思いますが、いかがですか
 昔は開放的な深夜放送がありましたから出来たんですよ。「遊び」があったというか局も遊ばせてくれましたよね。深夜でスポンサーも付かないしなんかやって時間を埋めてよっていう良い時代でしたよね。今は何でもお金、お金ですから・・・。おもしろい企画だと思ってもスポンサーが付かないとだめですからね。だから邦楽になるんですよ。そうすると僕らは場がないですよね。

今のヒット曲をかけるだけの番組はしたくないですよ。それをかけて何か言う番組だったらやりたいですけど。今はFM全体が面白くないですよね。熱心な音楽ファンはもう聴いてないんじゃないですか?

-FMにいわゆる音楽番組がなくなりましたよね。
 音楽はかかってるけど"音楽番組"じゃないですよね。情報にしてもレジャーやショッピングとか...。音楽情報とかもレコード会社が作った資料をDJが読むだけとちがいますか?勉強してるんかなあ。だから番組の構成とかもいろいろやりましたけど今はあんまりねえ。わかってないDJに原稿とかで伝えるのって、もうイライラするわ。

-自分でしゃべった方が楽だと。
 そうなんです。そこまでできるDJがいればいいんですけどね。自分でしゃべる方が制作費も安く上がるし。

 中高年向けの番組とかもできればいいんですけどね。

-FMがAM化しているというか。
 それはそれでも良いんですよ。きちんと音楽を紹介してくれればね。今はDJも力がないし、音楽全般に詳しい人がしゃべってないでしょ。スタイルだけの人とかね。制作担当者もそうですわ。音楽に熱心じゃないし好きなのは邦楽でしょ。全般に洋楽ポップスが好きだとかいう人は現場にはホントいないですよ、僕の知る限り。

-FMもレコード会社のプロモーションの場でしかないような感じがありますよね。
 今のFMは本当にそうですよね、極端に言えば。

-ラジオ局の人って音楽好きだって気がするんですけど。
 昔はそうでしたけどね。自分の思うような番組を作ってみたいから、とかね。最近は例えばFM局がカッコいいから入るとかそういうのかなあ。むしろAM局のディレクターの方が熱心な人が多いですね。AM局は本格的な音楽番組がなかなかできないですからむしろそういう人が多いのかもしれないですね。詳しい人も多いし。

何でFM局の社員にホンマに音楽好きなやつおらへんのかな?と。レコード会社の制作・宣伝担当の人からもそういう話をよく耳にしますね。「この間こんなレコード買うた」っていう話とか聞いたことないなあ。サンプル盤だけで済ませてるんとちゃうかなあ。僕は「ビリーブ・イン・マジック」でいろいろ買うてますから(笑)。

-今担当されている番組のことについて聞かせてください。YES-fmで「ザ・ビートルズ」という早朝の番組で選曲なさったり、「夜のポピュラー・ミュージック」ではDJだけではなくて構成までやっていらっしゃいますが、この「夜のポピュラー・ミュージック」はどんな番組なんですか。
 有線ブロードネットワークスで「上柴とおるのパラダイス・ア・ゴーゴー」という番組もやっていましてこれも基本的には同じなんですが、新譜からオールディーズを辿るというか、カヴァーを取り上げて時代を下がっていったり、そこからいろいろ派生したりとかね。他のFM番組ではやれないだろうなということを中心にやってるんですけどね。聴いてもらって勉強になるというか自分もいろいろ勉強しているんです。

-リスナーの反応はいかがですか?
 ないですね(笑)。普通のFM局やないし。80年代にFM大阪で深夜番組をやっていたときには結構反応があったんですよね。昔はNHKを除くとFMは一局しかありませんでしたから、音楽ファンはみんなそこに来てくれて、熱心に聴いてくれましたよね。

そのときのリスナーが今僕のまわりで仕事していて「昔聴いてました」って呼んでくれたりするんですよ。「一緒に仕事したいです」って、嬉しいですよね。

-啓蒙されると言うか聴いていてアカデミックな要求を満たせる番組が本当に少なくなってきたという印象があるんですが。
 達郎さんの番組なんかは本当に貴重ですよ。業界関係者にもあの番組のファンは本当に多いですしね。そう言えば以前番組で私のことを言うてたって聞いたんですけどどんな内容でした?

-B.J.Thomas のライナーのことをすごく誉めていらっしゃいましたよ。昨今のライターさんと比較してすばらしいと。
 うれしいなあ。書くの必死やったんですけど(笑)。

 達郎さんは以前何度も僕の番組に来てくれましたね。プロモーションで大阪へ来ると寄ってくれるんですよ。87年ぐらいかな、初めて来てもらったのは。それで、彼が来ると分かっていて Parade の特集したりして。ぼろくそに言ってましたね。「こんなバカな特集して!」。そう言いながら顔は喜んでましたけどね。Parade を一時間も特集するやつはいないですよ(笑)。

『The Parade』
The Parade
(A&M/Polydor POCM-2014)



-達郎さんと初めてお会いになったのはいつ頃ですか?
 70年代のナイアガラの後ですかね。お互い「ポップシクル」に原稿を書いてましたからね。「なんでこんなに Beach Boys に詳しいやつがおるんやろ」と思って。こっちも60年代のガレージパンクとかいっぱい書いてましたからね。Left Banke、Mamas & Papas、Question Mark、Outsiders なんていうのを書いてましたから、彼も変な奴だと思ってたんでしょうね。

初めて会ったとき「ああ、どうも」という感じで。ポップシクルの戦友みたいなもんですよ。彼の周辺に長門さんがいて、伊藤銀次さんもいて。70年代の終わりからなので、もう20年以上ですね。

 達郎さんは昔「サウンズ・ウィズ・コーク」って全国ネットの番組をやってたでしょ。その時、僕は大阪版をやってたんですよ、ABCで。彼がTBSでね。一時間番組で半分が僕だったんで「それでは、山下達郎さん、どうぞ〜!」みたいな感じで。

-そうだったんですか。ところで伊藤銀次さんとの交流というのは?
 82年に毎日放送ラジオで友達と深夜放送のDJを半年間やってたことがあるんですよ。その番組に銀次さんがコーナーを持ってましてね。

-『Baby Blue』が出た頃ですよね。
 そうそう、ポリスターの頃ですね。彼とはすごく趣味が合うんで何か一緒に仕事やりたいなと思っていて、ちょうどあのころ僕、FM大阪で杉田二郎さんの番組を構成してたんですけどそれがそろそろ終わる頃で、次はどうしても銀次さんとやりたいからと交渉して、彼もああいう番組をやるのが初めてだったんですけど、やっぱり新譜から過去を探って銀次さんに色々うんちくをたれてもらうというやつでね。

銀次さんもあれ以降そういう番組をやり始めて、「影響を受けた」って言ってくれましたね。そのあと、関西ロック(K-Rock)のインタビューにも応えてくれましてね。大阪出身の方ですし今でもお付き合いは続いてますよ。



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